後悔とか気まずさがずっと残る感覚

後悔とか気まずさの感覚は簡単には消えないかもしれない。子どものころの失敗をいまだに思い出してため息をついてしまうように。もしそうだとしても、簡単に忘れられないなら、そういうものだと割り切って抱え続けるしかない。

老人になってから(既に自分は老人であるという認識)のものであれば、サクっと忘れて後悔や気まずさとして残留しなかったりするかもしれない。そうだとしたら、いいニュースと悪いニュースがある、だな。

ファーストインプレッション、ファーストアナライズ

それを形にすることで次の感想や分析がやりやすくなる。
本当にそうか?
そこで止まってしまう、それに縛られてしまう、な弊害もありそう。言霊。
それはそれで次行こう、でいいんだけどね。

読み手として好きか嫌いかはともかく、思ったこと考えたことを文章にして進んでいくのは得るものの質も量も拡大するはず。
そういうやり方をしている人はスマート。

伝えようとするのと伝わるように書くのは別の話

我思う、ゆえに我書く
誰かを動かそうとするでなく
誰かに伝えようとするでなく
自分のために、ですらなく
でも、自分を含めた誰かに伝えるつもりで書かないと意味不明の内容になってしまう、まったく価値のない内容になってしまう
だから、伝える前提で書く

能力が高かった頃のやり方

年をとって身体的能力とか記憶力とかが衰えて、仕事の質が、もしかすると生活の質も落ちたんじゃないか。そう強く感じるとしたら、能力が落ちているにもかかわらず、能力が落ちていない前提のやり方に頼りすぎているのかもしれない。

衰えたなら衰えたなりのやりかた。メモを見る。指示書に従う。注意書きをよく読む。マニュアルどおりにやる。そういうやり方に移行しないままより衰えてしまうと、かなりしんどいことになったり、周囲の負担を増やしてしまったりするのではないか。