好きだと述べる材料

20年くらい前に、ラフォーレミュージアムのトイレから出たところで、手塚眞に話しかける機会をもったときのことだと思う。どういう脈絡だったかは忘れたけれど、クリストファー・ウォーケンが好きだと述べた僕に対して、彼は「ファンクラブに入っています?」と返した。

そういうものなんだとも、ファンクラブにも入らないで好きだと述べた自分を恥ずかしいようにも思ったように記憶している。あるものを好きだと述べるに際して持たなければならない覚悟というか用意のようなものの存在を僕が強く意識した瞬間だったように思う。

この覚悟だったり用意だったりの存在をどの程度重んじているかを見るのは、なかなか面白いと思う。例えば、こんな会話をしたことがある。

レッド・ツェッペリンが好きです」

「そうなんですか。僕も飛行船のジャケットのアルバムだけは持ってますよ」

「はい、私もそれだけです」

「そうなんですか」

談笑のペースは乱れないまま、レッド・ツェッペリンの話題はそこで終わった。楽しそうだなとも思うし、もったいないなとも思うし。付き合い方はどうあれ、好きなものの存在は素敵な人生の大事な要素だとは思う。その一方で、好きなものをどんどん追求していく行為もまた素敵な人生の大事な要素だと思う。好きなものに対して自分よりも大きなエネルギーを投入している人の存在は、悔しさを生むし、好きなものに対する義理を欠いている罪悪感のようなものも生む。この悔しさや罪悪感のようなものの存在は、自分の好きという気持ちに影を落とす。そもそも、世界のだれよりも強く好きである必要なんてないはずなのに、この義務感のようなものは何だろうと思う。